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メディア・ビオトープのすすめ:マスメディア中心から新しいメディアの生態系へ構造改革
水越伸、『新マスコミ学がわかる』朝日新聞社、2001年11月

●日本のメディア生態系
 2001年9月現在、日本のマスメディアの55年体制はまだ崩れていない、といえる。
 インターネットの普及やグローバル化で、ところどころにほころびができ、その隙間は徐々に拡大しつつあるが、いまだ隠然たる勢力を保っている。90年代、マスメディアは恐竜だ、まだテレビなの?、っていうノリのマルチメディア論がさかんだったのに、どうしたことだろうか。

 メディアの55年体制とは何か。朝日、読売をはじめとする5つの全国紙、県域を越えた三つのブロック紙、そして各都道府県に1紙ずつある県紙からなる新聞業界。その新聞と密接に結びついて発達した5系列の民放ネットワークと、戦前以来の伝統を持つ日本放送協会からなる放送業界。そして新聞と放送の経済的発展を支え、コントロールしてきた、電通、博報堂が牛耳る広告業界。これら三つのマスメディアが、日本の政治経済社会の中で培ってきた、オジサン臭い体制的構造体のことだ。
 僕はこの体制を考えるたびに、国策で杉林だらけになった日本の山野林を思い出す。自民党中心の林野政策によって、多様な樹木が伐採され、杉という単一の樹木ばかりが植えられた。暗い杉林には灌木や下草もあまり生えない。小動物や昆虫も生きにくい。
 日本のメディア環境は、強大な杉のようなマスメディアが立ち並び、それらが繁栄を謳歌する反面、地域紙、ケーブルテレビ、市民ラジオなどといった小さなメディアが棲息しにくい生態系になってしまった。いびつな生態系の中に組み込まれた私たちもまた、情報の消費者、受け手としての役割だけが期待される存在になってしまったのである。
 この状況が変わってきたのは1980年代以降のことだ。情報技術の発達に伴って可能になった小さなメディア、地域情報化の試みはあちこちで展開されてきた。その多くは、技術中心的、官僚的な発想の下で生み出されたために、かけ声倒れに終わったけれど、それでも新しいメディアが切り開く、これまでにないコミュニケーションの可能性をかいま見せた。一方、杉林にも異変が起きた。55年体制のマスメディア内部で自家中毒が起こり、やらせやスキャンダルが頻発し、社会が多様化するにもかかわらずナショナルな報道を越えられないという限界があらわになってきた。近年の杉林がきちんと管理されずに荒れ果て、杉花粉をまき散らし、問題視されているのによく似た様相を呈しているのである。

●メディアのビオトープを作ろう
 多様な生態系が生物としての人間にとって不可欠なのと同じように、多様なメディアの生態系は社会的存在としての人間にとって不可欠だ。しかしマスメディアの55年体制はしぶとく、マルチメディアだIT革命だといっても杉林の灌木や下草はなかなかうまく繁殖しない。そんな中で、メディア環境の多様性を保障するような仕組みを考えられないか。それが近年の僕の課題である。その鍵になるのが、ビオトープ。「生物の棲息に適した小さな場所」を意味する、生態学用語である。自然が破壊された都市や郊外において、開放的で多孔質な生物生存空間を生み出すための活動でもある。
 最近あちこちで、学校の校庭にトンボが来る池を作ったり、里山を守るボランティアが立ち上がったりしているが、これらはビオトープ活動の一環である。その意味を説明しておこう。まず、これまでの生態学が地球や国土といった大きな生態系を相手にしてきたのに対して、ビオトープは小さな生態系を扱っている。次に、ビオトープ活動は、池や林といった一つの「点」だけではなく、「点」を結びつけた「面」を想定して、都心や郊外の自然が失われた空間に生き物のすみかを植え付けていこうとする。そしてビオトープは、たとえば白神山地のような手つかずの自然ではなく、人が日常生活を送る空間であると同時に生物生物生息圏であるような、複合的な空間を意味している。最後にビオトープ作りには、キットがある。人工培土、天然素材で作られたマットなどの人工物を積極的に活用し、生態系を再構築しようというデザインの意志がある。
 ビオトープを特色づける以上のような観点は、この国のメディアの生態系を開放的で多孔質なものにしていこうという企て、メディア・ビオトープにもあてはめることができるだろう。
 これまでのメディア論は、マスメディアばかりに焦点を当ててきた。日本の新聞、放送は、近代国民国家として日本が外骨格を固めるための媒介として不可欠であったわけだが、国家より小さな社会空間や、国家を越えた社会空間に対応したメディアの検討はなおざりにされてきたと言ってよい。ケーブルテレビやウェブサイトなどに、大手マスメディア出身のオジサンが天下りしてもろくな事業にならないのは、彼らにマスメディア中心のメディア観しかないからである。僕たちはマスメディア中心ではなく、もっと小さな規模のメディア空間を考えていく視座を持つべきなのだ。
 ただし小さな規模のメディアを、その中に自閉して考えているだけではドツボにはまってしまう。過去の多くのミニコミは同好の志のあいだだけで生産、消費されてきた。もっと拡がりと多様性を持たせるためには、小さな規模はそのままに、ネットワークをはかっていくと言うことが考えられるのではないか。市民運動、学校教育、公民館、美術館など、たがいに関わりのなかった領域を異種混合的に結びつけることができれば、かんたんにへこたれないのではないだろうか。
 またメディア・ビオトープは、あくまでも僕たちの日常的な生活空間に根ざして展開されるべきだ。公共圏論で必ず参照されるヨーロッパのコーヒーハウスやパブもいいし、北欧の社会民主主義的なメディア政策もいいけれど、僕たちが生きているのは、爛熟した情報消費が当たり前となり、サイバーパンクを地でいくような、ハイテクに埋め尽くされた21世紀の極東地域だ。活字文化を映像文化より上に見たり、芸術やジャーナリズムに照らして高尚なメディアだけを扱うのではなく、ポピュラー文化が卓越した僕たちが今いる場所で問題をとらえようと言うリアリズムが必要だろう。
 最後になるが、メディア・ビオトープを生み出していくためには、それなりの仕組みと道具や素材が必要となってくる。たとえばコミュニティFMや地域のウェブサイトをつくりには、一般化して言える課題やコツ、スタイルといったものが存在する。もちろん地域が違えばメディアの働き方も違い、安易なマニュアル化やキット化はできないけれど、それでも思弁に走らない一般論は存在するはずだ。これまでのメディア論はそれを射程に入れてこなかった。今後はメディア実践についての知見と理論というものを充実させていくことが必要ではないだろうか。

●リテラシーとテクノロジー
 さて、ここまで僕は生態学の比喩で話を進めてきた。有効だと思ったからそうしたわけだが、比喩には限界もある。生物のビオトープとメディアのビオトープの最も大きな違いは、次の二つだと思う。
 第一に、ビオトープを造成し、そこで生きていく力のありかの違いだ。生態系では、生物の繁殖力は遺伝子に組み込まれたものとして、前提とすることができる。しかしメディア・ビオトープを生きる人間の場合、そうはいかない。多様なコミュニケーションを実現する多孔質な情報環境。その中にあるさまざまな「あな」や「すきま」を見出し、そこに主体的に棲息していく営みというのはなぜ起こるのか。それはメディアの読み書き能力などと呼ばれる、人々のメディアリテラシーによっているはずなのである。
 メディア・リテラシーとは、人々がメディアから流される情報を批判的に受け取り、自らもメディアを使いこなして意見や思いを表明し、コミュニケーションの場をつくりだしていく活動のことをいう。メディア・リテラシーは、人が社会活動をして、ものを考え、人と交わるためのメディア・ビオトープを生み出していく営みという意味までを含んでいるのである。メディア・ビオトープの形成には、メディア・リテラシーの育成が不可欠の課題となってくる。
 つぎにメディア空間を支えるデジタル情報技術は、自然界にある、いわゆる天然素材じゃない。マイクロソフトのソフトウエアやタイムワーナーの映画が繁茂するのは、政治経済的、社会文化的な理由がある。けっして使いやすいから、面白いからといった「自然な」理由によってはいないのだ。僕たちは、情報環境に積極的に小さなメディアを埋め込んだり、メディア相互の関係を調整するような作業を主体的に行うことで、ようやくデジタル情報化を自らのものとすることができるのだ。

●メルプロジェクトという企て
 ビオトープの専門家は、一度失われた生態系を復元することがいかにむずかしいかを共通して指摘する。人間が絶対的な開発者としてビオトープ作りを進め、都合がいい自然を生み出そうとすれば、必ずしっぺ返しを喰うという。それを避けるためには、地域の風土や地理をよく調べ、なるべくそこに適した生物のための場を、長い時間をかけてゆっくり生み出していく必要があるらしい。
 まったく同じことが、メディア・ビオトープ作りについても言えるだろう。僕たちはともすれば、流行の情報技術やメディアを使いこなすことがいいことだと思いがちである。しかし人々の日常生活がはらんでいる歴史性や地域性を無視したメディアの導入がうまくいかないことは、かつてのニューメディア政策で実証済みだ。
 僕たちは、表層的なみてくれはともかく、人々のコミュニケーションを豊かにし、自律的に存続し、ネットワークしていくようなメディア・ビオトープを、少なくとも数十年といった時間軸の中で、ゆっくりと立ち上げていく必要がある。
 僕は今、メディア表現や学び、リテラシーについての実践的な研究プロジェクト、メルプロジェクト(Media Expression, Learning and Literacy Project)を、林直哉、市川克美、菅谷明子、山内祐平などの仲間と立ち上げた。杉林のようなマスメディアを悪と決めつけて切り捨てるのではなく、その中に潜在する可能性を見いだし、オンライン共同体から学校教育、社会教育までさまざまな社会領域で生まれつつあるメディア表現の動きと結びつけていく。メディア・アートやハッカー文化が持つ異化作用を日常生活の中に埋め込んで、爆発させる。テレビと子供を結びつけ、マスメディアや学校という枠組み自体を突き崩す。
 そのような実践を自らのこととして引き受けながら歴史や思想との往復運動を行い、新しいメディア論の次元を切り拓いていきたい。紙面が尽きたが、メディア・ビオトープを生み出す試みを、僕は仲間と一緒にこのメルプロジェクトの中で実践していくつもりである。ゆっくりと、挑発的に。

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