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新しいテレビと社会
東京大学情報学環メルプロジェクト・日本民間放送連盟編集、『メディアリテラシーの道具箱—テレビを見る・つくる・読む』東京大学出版会、2005年7月

〜はじめはみんな視聴者だった〜
 私は大学を卒業してすぐにテレビ局につとめました。テレビ局はそれまで漠然と憧れの対象で遠い存在でした。しかし、学生から社会人になったその日からテレビ局員と呼ばれ、公共の電波を使って仕事をするのだから今日からはプロフェッショナルの自覚を持てと先輩から言われたのを、驚きと不安で受け止めたことを覚えています。テレビについてほとんど勉強したことがなく知らないことばかりでしたから、組織に所属することが即プロなのだと言われ、まるで三段跳びで大ジャンプをしたようでした。飛び出した起点と着地点が離れていて、飛んでから驚いたのです。

 初めて内部から見るテレビ局はビックリ箱のようでした。スタジオや調整室、送電施設を埋める機器に感心したり、日頃は画面の中にいる司会者が近くにいることにドキドキしたり、カメラの背後に大勢の人々がいるのも発見でした。テレビのフレームに映らないものの多さ、また最終的にテレビ画面になるまでに捨てるものの多さにも驚きました。
 やがて無我夢中の新入社員時代を経て、組織人としての会社員と、表現者としてのテレビ局員とは、期待されることが時に違うこと、また、テレビ局に属するからテレビのプロである、とは限らないと思うようになりました。「テレビ局で仕事をしていればプロフェッショナル」というのは、視聴者への責任を果たすという意味で重要なことですが、自分を含め周囲を見渡して、所属がそのまま自動的にプロを作るとは思えませんでした。むしろ放送局の名前と装置によりかかった錯覚もあるのではないかと思いました。
 放送の世界を離れた後も、テレビの送り手に関心を持ち続け、専門家とは何かと考えるようになったのは、こうして自分自身が経験したふたつの大跳躍のためです。一つは、受け手から送り手に突然立場が変わるというジャンプ、二つ目は、放送会社に属しているだけでプロだと考えるジャンプで、どちらもマジックのようでした。その驚きは、誰にでもあったことです。つまり、はじめはみんな視聴者だったのです。
 受け手から送り手にジャンプした人は、突然カメレオンのように色が変わったわけではなく、赤い血から青い血に変わったわけでもありません。私がそうであるように送り手たちはその時の驚きや違和感を覚えています。だとするとテレビの世界に踏み込んでいった時の経験は双方をつなぐ力や結び目となるはずです。受け手と送り手は、はっきりと分けられ断ち切られた世界ではなく、つなぎ目があり、それをわかりやすく見えるものにしたいというのが、この章のねらいです。最新テクノロジーのようにテレビはブラックボックス化した中身の全くわからない世界ではありません。人が制度や組織を作り、今のような形に作り上げたのであって、絶対的で変えられないものではありません。もしかすると、まったく別の形をとっていたかもしれません。その意味ではテレビを今と違うメディア、私たちの新しいメディアに変えていくのは不可能なことではないのです。
 ここではテレビメディアの特徴を掘り下げながら、受け手と送り手、互いの文化を知り、テレビの仕組み、特性や役割を知ることで、双方がコミュニケートできる新しいテレビと社会の姿を見いだすことができたらと思います。
 

(1) 放送の特性と影響力についてもっと知る

あなたは新製品情報をどのように知りますか。学校でテレビの話をしますか。芸能人やアイドルを好きになったのはどんなきっかけですか。最新のニュースや天気を知るのはどんなメディアですか。トレンドや人気のファッションはどのように知りますか。そして多くの話題や知識の中で、あなたが直接自分の眼で確認したことはどのくらいありますか。おそらく、「そういえばテレビで知った」という情報が多いのではないでしょうか。
テレビ放送が始まってから半世紀ほど、人々は一日に3時間ちかくテレビを見ています。あまりに当たり前に暮らしに入り込んでいて、その影響力の強さが見えにくくなっていますが、テレビは膨大な情報を流し続けており、私たちは意識しないだけでテレビから多くの情報を得ているのです。そして、気づかすに大きな影響も受けています。ここではテレビの特性について考えてみます。

@映像の力と特性
映像、音声、文字の組み合わせで膨大な情報を送ることが可能なテレビは優れたメディアです。私自身は、本や新聞を読んで涙がでるほど心揺さぶられたという事はあまりないのですが、テレビを見ていて涙がとまらなくなった経験は数多くあります。テレビは直接、感情に届く力があり視覚・聴覚だけでなく触覚や味覚、嗅覚も動員するような特性があります。
もちろん、直接触れたり味わえたりするわけではありません。しかし、人は想像力によって映像を受けとめるので、例えばグルメ番組でラーメンの映像を見るとおいしそうだと思わず唾液が出たり、お腹がすいてしまいます。あなたを見て話しかける司会者に、あなたの脳はあなたと司会者の関係を自然に作り上げます。司会者や出演者を好き嫌いで見ることが多いのも触覚的なメディアだからです。ブラウン管の向こうから司会者があなたに視線を合わせて一人称であなたに語りかけます。コンタクトを求めるようにみえるのは接触的なメディアの特性を利用しています。また、そのようにみせることもテレビの重要な演出の一つです。違和感なく暮らしに溶け込むように演出され、あなたに近い存在であるように工夫されているから、多くの人を自然とテレビに向かわせるのです。
クイズや生活情報系の番組で、出演者が家族のように構成されていることに気づいたことがありますか。クイズの回答者が、お父さんやお母さんのように振る舞い、ひょうきんなお兄さんはよく的はずれな回答をして、「なんだ、私の方がよく答えられる」と、視聴者の優越感を少しくすぐります。他にしっかり者のお姉さん、お隣の友達なども登場します。本当のファミリーやご近所ではありませんが、ファミリーやコミュニティーに似せることで普通の暮らしにより近いイメージが現れ、視聴者に安心感を与えます。取り上げるテーマが生活に密着した情報の場合は、セットを家のリビングルームにすることで親近感を演出します。

@テレビ局の作るマスコットの役割
テレビ局にはマスコットがいます。おおくは動物や花、あるいは架空の生き物ですが、親しみを持ってもらえるようどれも愛らしいデザインです。共通するのは、擬人化されていることです。視聴者に話しかける愛らしいキャラクターは、テレビという世界を近い仲間であるように見せます。それはロボットの人型デザインに似ているかもしれません。ロボット内部は機械でバッテリーで動きますが、表面が人型にデザインされ、合成音が人の声のように出力されると、テクノロジーの固まりは急に仲間として姿を変え、人に受け入れられるものとなります。
ステーション・イメージといって、テレビ局は自分たちのステーションをどのようなイメージに見せるか、あるいは見てほしいかを考えて広報しています。扱う商品が物ではなく情報なので、人々がどのようなイメージを持つかは重要なテーマです。マスコットは特に子どもたちに親しみを持ってもらうのに、効果があります。テレビコマーシャルで頻繁に登場し人気者になると、グッズが作られテレビ局に収入をもたらすこともあります。ぬいぐるみの格好でイベントなどに登場し、定期的に番組を持つ売れっ子マスコットもいます。子どもたちは、テレビ局を味気ないアルファベットで言うより、マスコットの名前をテレビに付けて呼ぶようになります。愛称で呼ばれるようになるのは、イメージアップと親近感が大切なテレビ局にとって重要なことです。
茶色い四角い顔で、「どーも」とあいさつするテレビのマスコットがいます。初めて見た時は可愛いと思えませんでしたが、毎日、どーもと言われるたびに何となく親しみを感じるものに変化していきました。繰り返しは、慣れによって親しさをもたらすという効果をもちます。ところで、このマスコット、目は愛らしいのですがギザギザの大きな歯を持っています。この四角いテレビ形キャラクターに噛まれると痛いかもしれません。もちろん、このマスコットを作ったデザイナーがそう意図したわけではないと思いますが。どーもと愛嬌ある目で挨拶し、しょっちゅうドジをしますが、安心して油断しているとギザギザ歯で噛まれ痛いことになりそうです。それはテレビというメディアの特性をなんとなく思い出させてしまいます。

@自分だけのテレビ番組
アザラシが迷子で発見され名前が付きました。ニュースで紹介されると、急に可愛い人気者になった例がありました。川縁に集まる人々はアザラシ好きというより、アザラシにそれぞれ自分の物語を付け加えているかのようです。迷子への同情と愛称が組み合わされ、その延長で自分の物語を付け加えることができるから、毎日ニュースで登場するのを見たいと思います。テレビが突然、人気者を生み出す背景には、ある出来事が起きると、見る人はそこから新しい物語を作り出すためです。長持ちする人気は、長続きするストーリーであるかどうかによります。テレビには、一人一人の「マイ・ストーリー」を生み出します。
 テレビは生き物のようなものと言えるかもしれません。とても多面的で見る人に応じて反射し、見る人の数だけ意識の空間を作ります。伝えられている情報は一つですから、見る人の数と言われても奇妙な感じがするかもしれません。でもあなたは、家族や友人と同じ番組をみても受け止めた方が違うことに気づいていると思います。視聴とは、あなたとテレビの間にある相互関係で、その時の心理や状況が大きく作用します。テレビは個別に取り入れられて、あなただけの番組に変わっていくのです。
もちろん、すべてのメディアは人の想像力と反応し個別のストーリーとなるのですが、とくに強くテレビの影響力が問題にされるのは、膨大な情報を伝えるだけでなく、視覚・聴覚に直接訴える強い刺激のメディアであるためです。

(2) 放送局についてもっと知る

テレビは情報量が多く、そのために影響力が強いことをお話ししました。だとすると、「その仕組みはどうなっているのだろう、どんな人たちが番組を作っているのだろう」そう思うことでしょう。この章では、放送の仕組みとカメラの背後ではたらく人たちについて少し説明したいと思います。

@送り手と表現することの責任。
送り手とはどのような立場でしょう。大まかに言って、受け手と送り手の世界が分かれるのは、送り手のテレビ局が大勢の視聴者に情報を伝えるマスメディアの手段と電波を、法的にも装置的にも所有していること、また産業・事業として国から許可され社会から認知されていることです。次に、事業の性格が、情報を届けるメディア、ジャーナリズム機関であることです。それは送り出す表現とその影響力に責任を持たなければならないというをことです。

@局の中の役割分担
放送局にはいくつかの役割分担があります。大きく分けて、プログラムを組み立てる人、出る人、作る人、送る人、売る人などです。
まず、「組み立てる人」。編成という作業です。放送は個別の番組が無造作にバラバラに出ているのではなく、その局の個性をアピールし視聴しやすい流れを作る工夫をしています。家作りで言えば設計士のような役割で、茶の間から個室やキッチンを繋ぐため配置と作業フローを考えるように、プログラムを配置して全体の放送を組み立てています。キッチンに行けば食器棚と冷蔵庫があり中の牛乳が飲めるようになっています。それはどこに何があるかを案内する家の約束事と言えます。同じように、朝・昼・晩と人々が求める情報を想定し番組を編成し、視聴をナビゲートしています。それは一日、一週間、一月、三ヶ月、一年などの様々な単位で行われています。
それから「出る人」。画面に登場するアナウンサーや出演者、ニュースキャスターなどで、一番、目に見えてわかりやすいですね。画面に映っているのは出る人ですが、背後で準備をしたり放送番組にしたりと、裏方で番組を「作る人」がいます。制作や報道で働く人がそれにあたります。番組ではディレクターやプロデューサー、報道では時に「出る人」でもある記者・レポーターがいます。
さらに映像をスタジオや中継地点から送り出し、遠い地域に電波が届くようにするための「送る人」が必要です。技術を支える人たちです。スタジオの映像や音声などはこれらの人々によって送り出されています。こうして、様々な役割の人がかかわり番組やニュースが生まれます。マスコットの項でお話ししたようにステーション・イメージを高める広報宣伝する人も必要です。
番組の最後にスタッフロールといって制作に関わった人たちの名前がでてきます。以前はスタッフの名前が巻紙のようなロール紙に書かれ画面にスーパーされていたのでロールと呼ばれるのですが、時に長いロールが映像を背景に流れることがあります。出演者やディレクター、リサーチ、広報など、出る人・作る人の他に、多くのスタッフが関わって制作したことがわかります。とくに技術は役割分担が細かく、音声、効果、照明、ビデオエンジニアなどです。スタッフロールはどのような人が番組とかかわり、どう役割を分担しているかがわかります。「実はこんな事を担当しました」と最後に挨拶されるようで興味深いものです。一度ゆっくり観察してみてください。
放送局は会社組織で、大勢の人が役割を分担していますから、全体がうまく機能するシステムが必要です。そのため「全体を動かし支える人」がいます。総務や経理などがそれにあたります。
民間放送は、番組の間にコマーシャルを放送することで、ビジネスをしています。「売る人」、営業の担当者はコマーシャル放送を成り立たせるため、企業の広告費を集めます。人体で例えると、役割で働く臓器に栄養を運ぶ血管のようなものです。テレビは大勢の人が見ており、ある企業が短期間で商品を知ってほしい時などには宣伝効果が高いのです。当然、広告主は、良い番組や人気の高い番組に自社のコマーシャルを効果的に放送したいと考えます。営業の役割は広告会社と共に広告主を探し、番組のコマーシャル時間をセールスしています。

@番組を評価する仕組み
どの部門にいてもテレビで働く人は、番組の内容の評価に関心を持っています。自分たちが生み出したものが正当に評価され、受け入れられたいと考えるのは、どんな職業でも同じですね。テクノロジーは進歩し、白黒からカラーに、フィルムからビデオテープに、映像の電送システムや衛星による生中継、コンピューターグラフィックス表現、そして現在はデジタル化で、急速に技術開発が進みました。しかし、これらはブラウン管の中をいかに多彩に表現するかという技術でした。ではテレビの内容についてはどうでしょう。今、内容をめぐる様々な議論が起きています。技術が革新的に進んだにもかかわらず、何を放送するかという本質的議論を深めてきただろうかと疑問が投げかけられています。

@尺度として視聴率
多くの広告主は、テレビが宣伝に適したメディアと考えており、毎日多くのコマーシャルが送り続けられています。このところ視聴率について多くの議論が起きています。視聴率を少しでも増やしたいと考えるあまり統計的に確実な数字となりそうな番組ばかりを制作し、新しい表現や意欲的な試みを避け、その結果、放送文化が貧しくなっている。行き過ぎた視聴率競争で安易で低俗な内容になり、質の良い公共的な番組が駆逐されているなどの指摘です。そもそも視聴率は、視聴者がどのくらい番組をみていたかを推しはかるための指標です。調査会社がサンプルとして無作為に選んだ家庭にテレビ視聴を記録する測定器を置いてもらい、得られた結果から、よく見られている時間帯や番組についてデータを提供します。広告主はデータを購入し広告を出す時の判断や分析の資料に利用し、テレビ局はテレビ編成や制作の参考資料とします。
最近、視聴率について議論があるのは、番組の価値を図るただ一つの指標として利用され、それ以外の指標や尺度がない状態だからです。視聴率それ自体が問題なのではなく、視聴率しか基準がない事や視聴率至上主義が、問題なのです。
営業の役割で説明したように、広告主はできるだけ効率的な宣伝のため、視聴者の多い時間帯での放送を希望します。しかし、一日は24時間でテレビ局がセールスするのは時間という有限の商品です。これが製品であれば、工場の生産ラインを上げて増産できますが、売るものが限られた時間なので、その時間のパワーを高める、すなわち、視聴者を増やして秒あたりのカロリーを高めたいということになります。これが視聴率という数字になるので、判断基準として便利なために多用され、やがて数字だけが一人歩きを始めたのです。

@視聴率と視聴質
視聴率だけを指標とする傾向に、テレビ局の中でも疑問の声はありました。実際、いくつかの局では、バランスをとるため、番組の質や満足度などを指標化できないかが試みられてきました。異なった指標、視聴「質」を求めて、満足度調査というアンケート調査も研究されました。多くの制作者は、むしろ作品をじっくり見てもらい人々に感動をもたらしたいと願っています。番組が人生の激励になったと視聴者から手紙をもらうことが何より嬉しいと多くの制作者は思っています。良い番組はテレビ局への信頼感につながります。視聴率の他に、例えば、幸福感や充足感、共感など、数値にしにくいけれど重要な「質」の評価を考える時期がきていると思います。
また社会にとって価値ある番組を作り続けるための環境整備も必要です。例えば高齢者をおとしめ笑いものにするような20%のバラエティ番組と、社会問題に鋭く迫る5%のドキュメンタリー番組とでは、どちらがより公正で豊かな社会に寄与するでしょうか。答えは明らかです。しかし、ほとんどのドキュメンタリー番組は深夜に放送されていて、放送枠そのものも、隅に追いやられている状況です。
トレンディドラマと呼ばれるジャンルがあります。9時台などのゴールデンタイムによく放送され、とくに女性層の支持を得ています。多くのテレビコマーシャルは購買力のある若い女性をターゲットにしています。視聴率調査ではF1と分類されている20代30代の女性層で、マーケットにとって重要な購買層です。トレンディドラマは、F1層を対象としていますので、どのチャンネルをまわしてもトレンディ風の金太郎飴という現象が起きています。もちろんトレンディドラマを否定しているのではありません。多様な番組が生まれにくい状況を指摘したいのです。高齢者はテレビビジネスからみると若年層のように購買意欲の高い集団ではありません。しかし、テレビが暮らしに本当に必要で、じっくり楽しんで見ているのはこの層なのです。視聴率だけの物差しで番組を送り続けると、人々の多様で豊かな暮らしが貧弱なものになりそうです。その意味でも、受け手は受けるだけでなく社会の中のテレビをどのように変えていきたいのかメッセージを送り手に発信し、質を考えることが大切になっています。これからは、視聴率がテレビの絶対的な基準ではないという共通認識をもち、別の指標や方法を検討する必要があるでしょう。

(3) 送り手と受け手をつなぐ

送り手と受け手のつなぎ目をわかりやすく見えるものにするというねらいで、始めに放送の特性と影響力について、テレビ局の仕組みについて書いてきました。次に、私がメルプロジェクトのメンバーとしてかかわったメディアリテラシーの実践を通して学んだことや感じたことを書きたいと思います。テレビの特性を知り、テレビ局の仕事や仕組みを見てきて、今度は送り手がどう受け手とかかわるかが折り返し点だからです。このプロジェクトは、仙台メディアテーク、東日本放送、メルの三者で、宮城県内の高校生にテレビ番組を制作してもらう活動でした。仙台メディアテークは仙台市のメディア拠点で、本やアート、映像など様々なメディアを扱う文化施設です。
ここでは専門家と市民を、どこで、どのように、「つなぐ」かがテーマです。

@つなぎ目をつくる
私は現在サイエンスミュージアムで働いていますが、公共施設が専門家と市民のつなぎ目にならないかと考えています。科学が専門化、細分化する一方で人ゲノム解読など科学は猛スピードで進行しています。狂牛病もSARSも不安な事件の多くは科学と関係があり、私たちは専門家でないからと無関心でいることができないのです。一方、科学者は何が進行しているのか市民に説明する責任を持ちます。今、様々なフィールドで専門家と非専門家をどのようにつなぐかは緊急の課題になっているのです。
放送では、専門家の送り手と非専門家である受け手の間に距離があります。専門家だけが扱う科学知識が危険なように、送り手だけが一方的に流す情報も多くの問題をかかえています。危険が予測されているのですから双方をつなぐための回路を作り、分断されないよう結び目を作る、橋を架けるような作業が必要です。仙台の実践では送り手と受け手という、今まで離れていたもの同士が、物理的にも心理的にも近く感じられるよう公共施設などが場所を提供し、双方が出会う仕組みを模索しました。
番組制作自体が目的ではなく、実践にかかわるもの全員が日常のメディアに気づくことができればと考えました。気づきのプロセスそのものに意味があります。良い番組を作ることではなく、良い気づき方が重要なのです。実践を始める時、送り手と受け手、大人と子供、この構図のままではどうしても一方が教え、他方が教えられる上下関係になってしまいます。公共施設やメルプロジェクトが間に入ることで、どちらも同じ目線で出会うよう考えました。

@送り手のメディアリテラシー
とくに送り手側には、今まで当たり前に取り組んできたテレビとは何かを考えるきっかけとしてほしいと考えました。テレビが強い影響力をもつメディアにもかかわらず、送り手は自分たちの世界に閉じこもり視聴者に十分な説明をしてきませんでした。しかし、メディアリテラシーを学ぶのに送り手ほど理想的な立場はないのです。なんと言っても視聴者からジャンプした経験は貴重で受け手の驚きも違和感も、想像することができます。プロジェクトは誰よりも送り手に大切な気づきをもたらすと考えました。しかも、テレビの本質に立ち戻ることができます。
テレビ局の作る人が見る人の成長に合わせて伴走できるのも実に得難い経験です。どちらにとっても貴重な学びをもたらします。高校生と共に番組を作るのは時間のかかる作業です。しかし日常の忙しさを思いテレビ局にとって負担が大きいと考えるは大きな損失です。デジタル化で地域と結びつきを深めることは緊急課題であり、つなぎ目は地域との結びつきを強めます。


@再び、はじめはみんな視聴者だった
メディアリテラシーの第一歩は、まず自分とメディアの関係と意味について知ることです。そしてメディアのメッセージと影響を知ることが、メディアを道具として使いこなし新しいコミュニケーションを生み出す基礎体力につながるのです。高校生たちが取り組む番組は夕方の情報番組の生中継コーナーでした。初めての集まりでは、高校生がまず制作現場と裏方を見学しました。私は今でもその日に見聞きした彼らの反応を鮮烈に覚えています。何故なら、初めて制作現場を見た彼らは、テレビ局に入って驚いたり疑問を感じたりした、あの時の私そのものだったからです。その時に彼らが抱いた感想やつぶやきを書き留めたメモがあります。

○カメラマンを見て感想
カメラマンが手でフレームを作るのを見た。気がついたのは、カメラに映るものと映らないものがあり、人が選んでいることを知った。  
○ スタジオ見学して
テレビだと豪華にみえるのに、ベニア板のぐらぐらするセットでびっくりした。  
○中継の音について気づいたこと
商店街の中継点を見学した。周りは通行人の騒音や友達の笑いもあって結構、騒がしかったのに、後で番組を見たらその音は入っていない。周りの人が囃していたあの雰囲気はどこにいったのだろう。
わかりやすい音を選んで他を捨てているみたいだ。
○ 出演者当人に直接聞く
あの笑いは作り笑いですか?
○ 中継点での内容が本社からの指示でカットになった
なぜ雨が降っているのに、(雨の日、視聴者は天気に関心があるだろうに)2回目のお天気コーナーがカットされたのだろう。
○ もしいきなりマイクを差し出されたら
やっぱりカメラを意識してしまい思ってもいないこととか、良く見せるために嘘をいうかもしれない。
○スタジオセットの感想は
狭い、家の居間のようだった。でも工場だったり見たこともない宮殿だったりすると自分と関係ない世界になる。普通の家をまねてリラックスできる工夫をしたのだと思う。
○中継ではどうして興奮したの
知らずにとても興奮してしまった。今そこにいることの興奮。友達が画面に出たし。臨場感があった。

これらの感想はテレビの特性について鋭く的を射たもので、最初の印象がどんなに大切かを知らされました。テレビが、刻まれた一部分の限られたフレームの中の事を伝えているにすぎないこと、音も映像も人が選んでいること、フレームの一部分を通してテレビは私たちに提供され、そして判断をさせていること、取材される人もまたカメラの前で自己演出すること、生のメディアとして興奮状態をもたらすことなど、多くの重要な点に触れています。

@テレビとコマーシャリズム
また、時間が充分あったのに天気コーナーがカットされたことを指摘した生徒は、後で質問すると、スポンサーの宣伝情報であるインフォマーシャルが次に続いておりその時間を圧迫しないためだと気づきました。ビジネスを含めた全体の仕事を知らせることは重要です。放送全体の仕組みを理解してもらうことがつなぎ目を作ります。
ともするとテレビ局は、コマーシャリズムの説明をせずに隔離された環境で受け手との結びつきを考えたがるかもしれません。しかし演出や内容の理由や背景がよくわからない事の方が信頼感を損ねます。テレビ局と営業について情報を提供する、その背景と制作現場の制約、演出手法など、民放テレビとコマーシャリズムに関わる課題を率直に話し理解してもらうことで、社会の仕組みやテレビの現状を把握することができるのです。
@作ってわかるテレビのこと
宮城では企画会議やワークショップが続けられましたが、生徒たちのその後の番組作りは混乱や悩みの連続でした。もうやめたいという声を聞いたこともあります。しかし、放送日本番は見事にやり遂げることができました。何ヶ月かの苦闘を経て力が集約され、生放送の溌剌とした表現となりました。何より、現実にテレビで放送され多くの人が見るのですから、表現に責任を持たなければなりません。責任が生じるというプレッシャーが良い意味で緊張感を生んだようです。
生徒たちは番組制作に取り組む活動を通して、テレビだけでなく自分を取り巻くメディア全体に気づいたのです。メディアを相対的にみることは問題解決能力やコミュニケーションの力を高くしていきます。メディアリテラシー学習が情報社会の中で生きる力をのばし基礎体力を上げる、実践の効果について観念的に理解していたのですが、成果を目の当たりにし感動しました。高校生で、見る人から作る人になる経験をするのは、これから情報の海を泳ぐために大事なことです。

(4) 新しいテレビの模索 

テレビは生き物のようなもので、見ることはテレビと一緒に自分のストーリーを作ることだと話しました。さらに、テレビは問いかけたり、かかわることを求めたりすることもあります。メッセージを送り、感動させ、時に問いかける、しかもほとんどすべての人が楽しめる、テレビは優れたメディアだと思います。しかし今、テレビは様々な批判も受けています。テレビの現状を踏まえながら、公共性と新しいテレビについて考えてみます。

@テレビの公共性
私はNHKだけが公共放送だと考えたことは一度もありません。放送に携わる人はいつも公共性を念頭に置き、テレビがなぜ存在を許されているのだろうか、そう存在理由を問いかける必要があると考えてきました。公共放送の議論で一番驚くのは、NHKや民放で働く人々や市民が、公共放送イコールNHKを前提として話すことです。そこでは大きな一つの組織だけが公共放送を担うと信じられています。そもそもパブリックを考えない放送というものが存在していいのでしょうか。強い影響力をもつ放送は大きな社会的責任を負っています。いつの間にかNHKだけが公共放送として君臨してしまい、民放は公共性という原点を問うことを怠ってきたように思います。受信料のNHK、広告の民間放送、単純に二種類に分けて、片方だけに公共の文字を帰属させた結果、放送の公共性とは何か、それを守るために何が必要なのかという本質が見えにくくなりこの国の「公共」をめぐる議論を貧しいものにしてきました。
民間会社の寄付から成り立つアメリカの公共放送は、自立した制作者と協力して良質の番組を生み出し、不安定な経済基盤と市場経済の中で、もがきながらも公共性を維持してきました。市場経済を言い訳にせず、良質の番組を送り出し放送文化に豊かさをもたらしている例は、公共性が問われているテレビの現状に参考になります。

@表現の夢とテレビの約束
テレビには表現する夢があります。しかし、夢を形にするために、するべき事があります。大きく三つに分けてみます。はじめに、「したいこと」があります。制作者の意欲や創造性です。二つ目は「するべきこと」、公共の福祉にかなうこと、みんなのためになることです。三つ目は、「しなければならないこと」です。これは取材される人との約束や人権を守るということです。またコマーシャル放送であればスポンサーとの約束もあります。
誰もがまず、個の表現として私が「したいこと」を考えますが、パブリックのために、「するべきこと」があります。そして放送の基盤を支える倫理として「しなければならないこと」があります。それらを通して、私たちは表現する行為、夢との共同作業に向かうのです。テレビの特性を理解し利用し作り始めると、素晴らしいメディアであることがわかります。

私は小さい頃からテレビ、特にドキュメンタリーが好きでした。テレビという小さな箱から知らない世界や人々の表情が写し出されるのを、わくわくして見ました。やがて、写し出される人が時に自分の方に向かって「きみはどう思う」と問いかけてくることにも気づきました。
いまでも素晴らしいドキュメンタリー番組に出会うと、自分は何ができるだろうとテーマについて考えます。同時に、自分が制作者だったらどのようにこのテーマと向き合い、作るだろうと想像します。多くの困難を乗り越え制作したに違いないなどと背景に思いをめぐらすと、完成に至る番組の成り立ちや制作者の思いが見えてきます。
すべての表現はメッセージを持ちます。どんな表現にも制作した人がいてメッセージをもってあなたに働きかけます。メッセージがあるから人を感動させるのです。
 もしあなたがテレビの番組を作るという機会を得たら、忘れず最初の感想は書き留めておくか仲間で話し合ってみてください。大切な出発点です。最初の驚き、疑問、感動を忘れないで時々思い出してほしいのです。それは同時に、自分に向けて、またテレビ局の制作者に向けての言葉です。この驚きに立ち戻ることで、テレビという素晴らしい世界への想像力が養われるのです。

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